その他

プロフィール

基本情報

 

・榎本 葵(えのもと あおい)
・1992年7月24日生まれ
・神奈川県川崎市出身
・左投げ左打ち

<実績>
・市選抜チームで県大会、関東大会優勝(小学時代)
・春の全国大会優勝👑MVP受賞(中2)
・夏の全国大会優勝👑MVP受賞(中3)
・日本代表として世界大会出場👑ベストナイン(中3)
・2009年夏甲子園出場ベスト16
・2010年ドラフト4位で楽天イーグルスへ
・2012年2軍戦オールスター👑優秀選手賞
・2013年初打点初サヨナラ初ヒーロー
・2013年リーグ優勝&日本一のメンバー入り
・2014年Uー21日本代表入り全試合出場

<指導者として>
・オンラインレッスン生100人越え
・中学野球日本代表入り
・SNS総フォロワー5.6万人

幼少期〜小学生時代

私は、ごく一般的な家庭の長男に生まれました。
両親共に野球が大好きでしたが、観る専門の未経験者。
男の子が生まれたら野球をさせようと決めていたらしく
物心着く頃にはボールを握り、バットを振っていました。
家のテレビは常に野球で父との遊びも野球。
そんな環境で育った私の夢はもちろん
『プロ野球選手』
幼稚園のアルバムにも書いてありました
正しくは(ぷろやきゅうせんし)でした。(笑)

小学生になると地元の少年野球チームに入ります。
最初は全く当たらない、投げれない、捕れない、、、
そんな日々が続き、2年生になったある日の試合で
まぐれでランニングホームランを打ちました!
今でもその感覚は鮮明に覚えています。人生初ホームラン。
その日の帰宅後父に、もっと上手くなりたいなら毎日練習しないとな!と
言われてすることになるのですが、、、
まだ小学2年生、遊びたい年頃です。
毎日のように怒られながら、泣きながらやっていました。いや、やらされていました。
やらされながらでも続けた結果、3年生からAチームのレギュラーに選ばれました。
そこでやれば上手くなれることを実感し少しずつ自主的に練習をし始めます。
しかし、練習といっても素振り、ランニング、ダッシュ、シャドーピッチングと
シンプルかつただやっているだけのものでした。
その同時期から父の指導にも気合が入ってきてしまい
いわゆる”スパルタ指導”というやつでした。
口癖のように少しでも気に触るような事あると
『嫌なら辞めちまえ!!』でした・・・
(ここでよく辞めずに来れたな)
その結果、数だけがどんどん増えていき肩を怪我してしまいます。
この怪我が後々大きく響いてきます。

4,5,6年生時はチームの主力として戦い
チーム内で3年連続3冠王になりましたが
チームでの優勝経験はなく優勝は市の選抜チームでのみでした。
中学生になったら強いチームに入りたい!!
そんな事を思っていた小学生時代でした。

 

中学生時代

たくさんのチームからお誘いを頂きましたが
私の中では一択でした。
プロになるなら早く硬式に慣れたいと思っていたのと
全国常連のチームがあると知ってしまったから。
先程伝えたように私は勝ちに飢えておりなりふり構わず
ここに行きたい!!と両親に説得しました。
自転車で山を2つ越え片道1時間弱の道のりを
これから3年間通う事になります

入団した当初は先輩たちとの差に愕然としたのを覚えています。
ランニングでは周回遅れは当たり前、
ダッシュでも1歩目から置いてきぼり、
打っても投げても全く相手にならない、そんな状況でした。
このままじゃ試合になんか出れない、やばい!!
私は心に誓いました。
誰よりも練習しようと。
そこからは無我夢中にやりまくりました。

今までやらされていた練習を必死にやるようになり
1年の夏には背番号を貰い全国大会に出場しました。

しかしまたがむしゃらに練習をしていた事が原因で
肩を怪我してしまいました。
2ヶ月ほどで治りました

今思うと・・・
ただがむしゃらにやるもんではないな・・と
正しい努力の仕方が絶対ある!
今の自分が過去の自分に指導出来るなら
この半分の量でこの成績は残せるはず。
ってことは怪我なく、もっとすごい選手になってたかも!?
そんな妄想をしてしまいます(泣)

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後々出てくるめちゃくちゃ大事なポイント

2年生からは主に5番ピッチャーとして
県大会、関東大会を何度も制して全国大会も2度優勝でき
日本代表にも選ばれて、、、
鳴物入りで高校に入学します。

高校時代

あのダルビッシュ有投手を育てた
若生監督当時指揮を取っていた
九州国際大付属高校に入学しました。
中学時代の監督に行きたい高校は?
お前ならどこでも行けるから行きたいところあれば言って。
そう言われ私は黙り込んでしまいました。なぜなら、
中学時代は正直甲子園への憧れは全くなくプロ一択だったから、、

見かねた監督が
甲子園に行きたいのか、プロに行きたいのか・・・
どっちか聞かれ即答しました。
『プロに行きたい』と。

当時は監督就任3年目という事で
2,3年生には監督が各地方からエースで4番級の
選手を引き抜いてきたようなチームでよく外部からは
『外人部隊』や『銀河系軍版』などと呼ばれていました。
そんな恐ろしいチームで入学即4番に座り
自分がここに居ていいのか本気で悩みました。

そう思ってしまったエピソードがこちら

夏の大会前、メンバーに入れなかった3年生が行う引退試合。
そのスタメンに入れなかった先輩が最終回で代打で3人出ました。
その結果・・・3者連続代打本塁打。
こんな先輩たちがいるんですよ、真剣に悩みますよね💦
※結果:23-0(大勝)

先輩たちに恥じないようプレーしないと!!
そう思えた時と同時期に先輩たちからも
たくさんの声をかけていただき
身が引き締まりました。
結果的に甲子園には行けなかったのですが
公式戦初となる延長14回サヨナラホームランを打てました。

2,3年時には古傷である肩の故障にも悩まされましたが
誤魔化しながらなんとか試合に出続けました。

その後、大きい大会や注目度の高い試合で
結果を残してきました。
九州大会決勝3打数3安打
PL学園との招待試合3打数3安打
甲子園決勝点となる本塁打
のちにドラフト指名される投手から場外弾

などのアピールが功を奏して
ドラフト4位指名で楽天イーグルスへ入団

中学時代からそうでしたが
大舞台になればなるほど力を発揮できます。
これは圧倒的な練習量からくる自信と
目標設定の緻密さが他とは次元が違っていたからだと
後々気が付きました。

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ここも後々出てくるめちゃくちゃ大事なポイント

 

 

プロ時代

幼少期からの夢であり目標だったプロ野球選手になれた私ですが
いきなり大きな怪我をしてしまいます。
右脛の疲労骨折です。
骨折部分が非常に治りにくい箇所でしたので
人生初の手術をすることになりました。

全治6ヶ月でプレー復帰はそこから2,3ヶ月とのこと。。
ここから頑張るぞ!!と意気込んでいた矢先の出来事に
不安や絶望で眠れない日々を過ごしたのを覚えています。

そこから徐々に気持ちを前向きに切り替え
プレー復帰まで9ヶ月程と言われていましたが
6ヶ月で復帰し2軍ではありますが高卒1年目で3割をキープして
シーズンを終えることが出来ました。

それ以降は怪我なく成長していき
2年目は1軍初出場、初ヒット、2軍オールスター優秀賞
3年目には初打点がサヨナラヒットに!

順調にきていたプロ野球人生でしたが、、実は、、
2年目の秋季キャンプ以降自分のバッティングが
分からなくなっていました。
正直、ここまでくるまで殆ど悩まず
他の人にも聞いたこともなかったです。しかし、
そこからというもの、先輩やコーチから聞きまくり
試しては失敗してを繰り返していました。

今でも覚えている屈辱的な出来事です、、
1軍での試合前バッティング練習で
監督、チーフコーチ、バッティングコーチ2人、守備コーチ2人
計6人のコーチが私が打つバッティングゲージを囲い見ていました。
それだけなら全然大丈夫なのですが、、、
6人のコーチから全く違う指導をもらっており
何が何だか分からなくなりもうぐちゃぐちゃ。
5分あったバッティング練習で1度も前飛ばなかった。
試合前の札幌ドーム。お客さんは満員。ベンチ裏で隠れて泣きました。。
話が逸れてしまいましたが、、

私はそこで本当に多くのことを学びました。
悩みまくり、当時は訳が分からなかった事もありましたが
色んな経験ができ引き出しもかなり増えました。
プロの方の感覚やイメージ、考え方、技術など。
今となってはいい思い出ですし私の武器です。

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ここも後々出てくるめちゃくちゃ大事なポイント!!

引退後の挑戦

中々結果が出ないまま2017年オフに戦力外通告を受け
加圧トレーナーとして勤めながらクラブチームでプレーをしていましたが
家を出るのが8時で帰宅が22時になる為、
中々練習の時間が取れませんでした。
なので朝は出勤前にウエイトトレーニング
通勤はロードバイクで片道25キロ(1時間半)
帰宅後は素振りや短ダッシュをしていましたが
あることがきっかけでチームと会社を辞めることになりました。
(気になる方は直接お聞きください)

それからは独立リーグの富山サンダーバーズに入団し
トライアウトに向け結果を残しつつ実践感覚を取り戻してきました。

ところがなんと、、、

この年のトライアウトの参加条件が急に変わり
参加できなくなりました。
1年半もの間このトライアウトの為に頑張ってきたのに、
私はお先真っ暗な状態になりしばらくの間
現実を受け入れる事が出来ませんでした。

しかしいつまでも悩んではいられないので
何かしなければ!と考えれば考えるほど、、
自分には野球しかない、野球しかできないことに
劣等感を感じました。

妻の親戚にあたる叔父と従弟が競輪選手なので
お話を聞かせてもらいその道でも一度チャレンジをしたいと
頭を下げ弟子入りさせていただきました。
もちろん競輪は未経験ですしプロになるには
学生時代からその道でやってきた経験者でさえ
一発合格はエリートと言われるような世界。
並大抵の努力では合格はできない。

家族にも負担が掛かってしまう状況下なので
1年だけを条件にお願いをし応援してくれました。

そこからは死に物狂いで自転車と向き合い
想像以上に過酷な日々でしたがこれからの
人生をかけた戦い、負けるわけにはいきませんでした。

朝4時に起きロードバイクで練習場まで向かい
片道50キロ(約3時間,帰りは4時間半←へばり過ぎて進まず笑)
帰宅後は0時までバイト。この生活を約1年半。

結果は、、、

不合格でした。

ここまで私のために自分の時間を犠牲にしてまで
練習に付き合っていただいた師匠や先輩方。
何より一番そばで支えてくれた妻との約束を守れず
本当に申し訳なくなりました。

しかしここで得た経験はすごく大きく
自分の限界値はまだまだ高いところにあった事や
師匠のプロとしてのマインド。
今の自分はこの経験がなければきっとありません。
失ったものも大きかったですが、得たものも凄く大きかったです。
この経験は絶対無駄にはしない!そう心に誓いました。

 

今と将来

とは言っても、現状は無職。

そんなある日知り合いの子が野球をしていて
少し教えて欲しいと言われバッティングセンターへ。
教えるたびに打てるようになるその子は
すごく楽しそうで、その笑顔を見て私も嬉しくなり、
ちょっと打ってみてよ!と言われ数年ぶりのバッティング。
中々思うように打てないもどかしさとたまに出る会心の当たりに
その子も喜んでくれました!
最後には僕も榎本さんみたいに打てるように練習頑張る!!
と言ってくれました。

めちゃくちゃ嬉しくて帰宅後妻に話しました。

そうすると、、、

「本当に野球が好きなんだね、じゃあそれ仕事にすれば?」

ん????どうやって?
一瞬私の頭の中は「?」←でいっぱいでした。

あ!!SNSか!
妻すでにSNSを使って認知を広げておりましたので
全くやったことのないInstagramやTikTokの
使い方など、手取り足取り教えてもらいながら
野球塾をスタートしました!

私はプロで活躍するような方達から多くの知識を学び
実践していることを噛み砕き子供達に教える事が出来ます。
これは誰にでも出来る事ではないと自負しています。
なぜなら私は聞くだけでなくほぼ全て実践してきているからです。
失敗はもちろん多かったですがどうやれば上手くいくかも
瞬時に分かるようになりました。

プロの方の感覚やイメージ、考え方、技術は
SNSで知ることが出来ますが、
それを分かりやすく且つ
その子にあった適切な引き出しを提供する。
中々出来ることではありません。

指導は積み木を高く積み上げるように

 

小さく細かい技術ばかり積み上げても
すぐ崩れてしまうし高くは積み上げれない。
大事なのは、土台になる基礎をどれだけ並べられるか、、
土台がしっかりしていればめちゃくちゃ高く積み上げれるし
そうそう崩れない。

そして、怪我の経験も活かし適切な練習量の提示や
中学時代なんとなくやっていた目標設定も今では
言語化して子供達に伝えられるようコンテンツをマニュアル化しました。

私と同じような経験をしてほしくない!!

 

・正しい練習量と練習方法でオーバーワークを防ぎ怪我をさせない。
・分かりやすく伝え且つその子に合ったものを提案して混乱させない。
・目標設定を正しく行いモチベーションの維持。
・そして!野球だけしかない世界にさせない。

現役生活はいつまでも続かない。
好きな野球を仕事としてできる可能性があり
また、この世の中、野球以外にもたくさんの事があり
今から広い視野を持っておいてほしい。
将来的に色んな選択肢がある中の一つに
野球があり指導者として活躍してくれる方が
出て来てくれると嬉しいです。

また少年野球でまだまだ多く見られる感情任せに怒鳴り散らして
子供達を萎縮させる指導者。
本当に腹立たしい。何のために指導しているのか、、
野球人口の低下はこういう輩のせいでもあります。
私はこれからも野球人口の増加に貢献していきたい!
その為にはもっと野球の楽しさを知ってもらえるよう
一人ひとり生徒さんに向き合い、
SNSを通して、活動をたくさんの方に知ってもらい、
良い指導者さんが増え子供達が野球って楽しい!!!と
言ってくれる子がどんどん増えるよう精進してまいります!

今ではInstagram3.2万人TikTok2.9万人
妻をはじめたくさんの方のお陰でここまで来れました。
まだまだこれからも精進してまいります!!

最後まで読んでいただきありがとうございました。